苦い文学

肛門時代

トイレで噂話をしていると、個室からご本人が登場————-というのは韓国ドラマの「あるある」だ。大ヒットドラマ『愛の不時着』ではこれにひねりが加えられて、楽しいシーンとなっていた。

実は、最近私も個室にいるあいだ同じような経験をして、この時は閉口した。なので、トイレで噂や秘密を言いたくなるのは、日本も韓国も関係ないということなのだろう。

古代ローマの公衆浴場のトイレでは、互いに顔を見ながら排便できた、というが、これは特殊な例で、複数の人間が同時にトイレという施設(あるいは化粧室)を利用すること、そこに連れションしたり、噂話をしたりなどするというのは、近代に入ってからではないだろうか。

幼児はトイレトレーニングを通じて排泄を管理することを学んでいくが、この「肛門期」と呼ばれる時期の経験が人間の性格に多大な影響を及ぼすと考えたのが、フロイトだ。

私は精神分析についてはよくわからないが、われわれがトイレで本当のことを打ち明けたくなるのは、それが一種の排泄であるからだろう。われわれにとって尿や便ほど本当のモノはないのだ。

そして、われわれは普段は軽々しく本当のことを漏らしたりしないのは、トイレ以外のところで漏らさないのと同じだ。

もちろん、一人で排泄するのならば余計なことなど言わないのだが、近代の多人数向けのトイレではそういうわけにはいかない。つい、連れに真実を排泄してしまうのだ。

ここで私は提案したいのだが、例えば裁判をトイレ内でもよおすというのはどうだろうか? そうすれば、誰もが真実を話すにちがいない。

開廷とともに、肛門を開き、閉廷とともに肛門を閉じる。多少の臭いは気になるかもしれないが、そんな時代が来るかもしれない。

(そういえば、アメリカの富豪、ロバート・ダーストが殺人を告白したのも、トイレ内でだった。確かにトイレでは人はさらけ出すのだ。)