「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」
なんと恐ろしい言葉だろうか。私はこどもの頃から、この言葉に苦しめられてきたのだ。
なぜなら私の肉体は健全とはいえなかったから。見た目も悪かったし、走るのものろかった。どんなスポーツをやっても物笑いの種だった。
だから私はてっきり信じ込んでしまったのだ。自分に宿った精神もまた不健全である、と。
ああ、いったいこの世界のどこに不健全なる精神が安らげる場所があるだろうか。私は今に至るまで、自分の不健全でいびつな精神がバレないようバレないよう、怯えながら生きてきたのだ。
だが、最近のニュースはどうだ。スポーツ界では不健全なことばかりではないか。いじめ、パワハラ、セクハラ、暴言、隠蔽体質、勝利至上主義、虐待、清原。どれもいびつな精神の持ち主がやることなのだ。
そうなのだ! 健全なる肉体だからといって、健全なる精神が宿るとは限らないのだ。いやむしろ不健全な精神が宿りがちなのだ。
私は長年自分が感じていた引け目が解消されたように思った。不健全な肉体でも堂々と生きていけるような気がした。不健全な肉体の時代が始まったのだ!
私はすっかり元気になってしまい、この福音を伝えるべく、友人に電話した。彼もやはり不健全な肉体の持ち主なのだ。
だが、彼はこの福音に心躍らせるそぶりも見せず、こう返したのだった。
「なるほど、健全なる肉体には不健全な精神が宿ることもあるかもしれない。けれど、不健全な肉体にはもっと不健全な精神が宿ることだってありうるのでは?」
私は電話を切り、寝っ転がって Netflix を見ることにした。