苦い文学

喉元過ぎれば

査読誌に論文を載せてもらうのは、私にとってはとても大変だ。

なにが大変かというと、査読報告への対応だ。つまり、匿名の二人の査読者が原稿に付した「コメントや疑問」に対処して、修正稿を作成しなくてはならないのだが、これがそう簡単ではないのだ。

もし修正が、誤字脱字程度のものなら大したことはないが、普通はそれでは済まない。査読者たちは、用語の混乱、議論の不足、論理の飛躍といった本質的部分を鋭く指摘し、私の心胆を寒からしめるのだ。

もちろん、査読者は意地悪をしているのではなく、よい論文にするために建設的なコメントをしてくれているのだ。それがわかっていても、いざ査読報告を読むとなると、どんなことが書いてあるか知るのが恐ろしくて、はじめは片目、しかも薄目でチラと見ること以上のことはできない。

そして、実際の修正作業に入れば入ったで、査読者の要求に応えられるかどうか、綱渡りか薄氷かというくらいの緊迫感のなか日々過ごすことになる。

プレッシャーに押しつぶされて、もう「辞退」しようかと思うこともしばしばだ。だが、査読という大変な仕事を無償で、しかも短期間で遂行してくださっている査読者のかたがたのことを思うと、そんなことはできない。

だが、そんなありさまでも、数ヶ月後に解放の時がやってくる。査読者との「共同作業」のおかげで格段によくなった論文を手放すときが来るのである。

私はもうこりごりだ、と思うのだが、数年経つとすっかり忘れて、再び投稿してしまう。