リテラシーとは情報の真贋を見分けるための指標であり、特に重要なのは、その情報の発信者が専門家であるかどうかである、と前に書いた。
情報過多ともいえる現代では、このリテラシーについての教育もまた急務となっている。つい最近のことだが、そのことを痛感させる出来事に遭遇した。
私が電車の中で痴漢をしていたときのことだ。私は不覚にも周囲の乗客に取り押さえられ、次の停車駅で駅員に突き出されたのだった。
私は否認した。しかし、私を捉まえた男たちも、痴漢をされた女も私がやったと主張し、駅員もそれを信じかけているようだった。そこで、私は次のように訴えたのだった。
「私はこの道何年もの痴漢の専門家であるが、あなたはその専門家の『やってない』を信じずに、これら素人の言う『やった』を信じるのか」
こう迫ると、駅員は私を警察に引き渡した。私は警察にも同じことを言い、さらには裁判でも同じことをはっきりと言ったのである。
まったく、専門家が重んじられないとは嘆かわしい世の中だ。私は刑期を勤めあげたらリテラシー教育にこの人生を捧げたいと思っている。