コロナウイルスのまん延とともに、ソーシャル・ディスタンスという言葉も定着した。
このソーシャル・ディスタンスは「社会的距離」、ソーシャル・ディスタンシングは「社会距離拡大戦略」と訳される。だが、我々の社会においては、あらゆるものが社会的なのだから、社会的でない距離などないのではないだろうか。それをどうしてわざわざソーシャルというのか。私はこの言葉を聞くたびに、ばかばかしく思っていた。
この秋、私はだれ訪うことのない険しい山奥を一人さまよい、一夜を過ごした。野営に定めた場所をぶらついていると、2本の立派な樹が離れて立っているのに気がついた。まるで鳥居のように見え、私は感心して眺めた。そして、こんなふうに考えた。その2本の樹の間の距離に「鳥居」という意味を与えたのは私であって、私によってその距離は始めて(おそらく有史以来始めて)社会的意味を与えられたのである。すなわち、私がこれらの樹を見る以前は、その間の距離は社会的なものでも何でもなかったのだ。
「ほれみろ」と私はつぶやいた。「ソーシャルでない距離など山奥にしかありはしないのだ」
私はふとその「鳥居」をくぐりたくなった。近づいていくと、2本の木の中間に小さな立て看板があるのが目に入った。それには筆でこんなふうに書かれていた。
「ソーシャル・ディスタンスの木」
看板の端にはマンガ風のカブトムシが描かれ「蜜に注意!」と呼びかけていた。
(*ソーシャル・ディスタンスのソーシャルとは「社会みんなで維持する、協同的な」という意味であろう。)