真実の記録

僕はフィッシュだ

日本語では「木が生えている」「木の机」というように「木」は植物としての「樹木」も、素材としての「木材」もともに表わしうる。

だが、英語の場合はそうではない。「tree」が表わしうるのは「樹木」のみであり、「木材」のためには「wood」や「lumber, timber」という語がある。

これは文化によって世界をどう捉えるかが異なるためであり、どの言語間にも多かれ少なかれこうした差異は存在する。

あるとき私はヨーロッパ方面に飛び立った飛行機の中にいた。それは、日本の航空会社とのコードシェア便であり、機内には多くの日本人がいた。

食事の時間が来た。キャビン・アテンダントがワゴンを押して、「Fish or Chicken」と乗客に聞いている。機内食の魚はたいていパサパサしている(印象がある)ので、私は必ず鶏肉や牛肉を頼む。

そんなわけで、私は「Chicken」を要求した。キャビン・アテンダントはワゴンから「Chicken」を出そうと屈んだ。だが、その時、隣の列で食事をしている人の姿が目に入った。

うなぎ!

私はあわてて「Fish」と叫び、鰻に変えてもらった。あやういところであった。

このときまで、私は「Fish」に鰻が含まれうるなど思いも寄らなかったのだ。なぜなら、鰻は魚料理などではなく、鰻だからだ。いや、鰻ですらない。それはただご馳走なのである。

世界は言語によってその姿を変える。文化によっては鰻は魚料理であってもいい。だがそうした違いは実は、我々が鰻を食べる機会を逃すという危険に直結している。そのことに警鐘を鳴らして、この稿を閉じたい。