年老い、もはや死を待つばかりとなった私は、自分に残された時間の僅かであることを悟り、最近、時間について研究をしている。
時間とは何だろうか。
古来多くの哲人を悩ませてきたこの問題について私は一つの答えを見出した。
時間とは後悔である。あるいはこう言い換えてもいいかもしれない。時間の経過とは後悔の量である、と。
この結論の証明には難解な数式を持ち出さねばならない。だが、それではみなさんにはわからないだろうから、割愛させていただく。
しかし、この発見によって今まで不可解とされていた多くの事柄が説明可能となったことは述べるに値する。
例えば「後悔先に立たず」という現象である。
時間の経過が後悔の量そのものであることを考えれば、これは至極当然のことだ。
また、「憎まれっ子世にはばかる」とか「善人は短命」といった現象も同様に説明される。
人に憎まれるような人とはどんな人であろうか。そう、後悔などしないふてぶてしい人に決まっている。では、善人とは? もちろんおのれの行いについて反省し、よく後悔をする人である。
そして、後悔が時間であるならば、後悔すればするほど、時間が進むのであり、その分、寿命が尽きるのが早くなる。いっぽう、後悔をしない人は、あたかもその人においては時間が停まっているかのようなのであり、ひょっとしたら永遠に生きかねないのだ(なので長生きしたい人は後悔などしないがいいだろう)。
「なるほど、時間が後悔であることは分かった」 みなさんはこう言い、それからこんな問いを投げかけることだろう。「だが、あなたの言う後悔とはなんなのか」
これほど簡単なことはない。この理論(「後悔性理論」とでも呼ぼうか)についてはじめて明らかにした本論文は、さして長くはないものだが、それでも、読むのにいくばくかの時を要する。そして、みなさんは、今、人生の貴重な時間を使ってこの論文をここまで読んだところだ。
今、みなさんの心の中に何があるだろうか。
そう、それが後悔だ。