真実の記録

5+7+5は死+死+苦

知性が衰えたのか、それとも、世界の悲惨さに押しつぶされそうになっているのか、人々の苦しみがひとしお骨身に染みるようになってきた。

苦しみにもいろいろあるが、虐待や残虐な行為の犠牲となる苦しみが、もっとも顕著に私の身に堪える。

例えそれがフィクションでもだ。ドラマを見ていても、残虐な場面に遭遇すると、直ちに消してしまう。

こんなとき思い出されるのが、俳句をたしなんでいた祖母のことだ。まだ十代だった私はこんな第二芸術のいったい何が面白いのかまったく見当もつかなかった。

しかし、今になってみると、祖母の気持ちがわかるような気がする。俳句には残虐な要素がいっさいない。季語にはむごたらしさのかけらもないし、五七五の間には飛び散る肉片や、血まみれの子どもや、悲痛な絶叫などが入り込む余地はない。これが老人たちの気弱になった心にちょうどいいのだ。

もちろん、多少はハラハラさせるところもある。「古池や蛙飛びこむ」と聞くと、我々の緊張はいやおうなく高まる。だが、「水の音」ですっかり安心してしまうのだ。「やせ蛙まけるな一茶」でも同じだ。我々は敗北の予感に脅えるが、後に続く「これにあり」で「あってよかった!」とほっと安堵のため息をつくのだ。

だが、もしこれが「古池や蛙飛びこむ虐待で」とか「やせ蛙まけるな一茶を血祭りだ」とかだったらどうだろうか。もちろん俳句としてはこちらのほうが秀句だろうが、おそらく老人たちは筆と短冊を放り投げて、この世に絶望して棺桶に自らもぐり込むにちがいない。