Arakan, 難民, 入国管理局, 東京入国管理局

おもてなさぬの品川入管記(3)

 さて、先行きは不透明にせよ、椅子を確保してようやく私は、2人のアラカン人の若者と話す気になった。初対面の挨拶などすっ飛ばして3階にやってきたってわけだ。

 男性のほうはもともと日本語学校で学んでいたのだという。しかし、2つの問題が生じて、去年の秋に辞めた。ひとつは、クラスの中国人とベトナム人が寝てばかりいるのでろくな授業が行われなかったから。これは私も経験ある。思うに、日本と中国・ベトナムとの間にはたぶん12時間ぐらい時差があるのだ。そりゃ眠くもなろう……。

 もうひとつの理由はもっと深刻だ。彼は新聞配達の住み込みをしていた。新聞社の中には、配達の人手不足解消のために、ミャンマーの日本語学校と提携して留学生を受け入れているところもあるが、それだ。

 私はその契約がいかなるものかは知らないが、彼によれば、月給13万と聞いていたのに、9万円しかもらえなかったという。しかも、残業も多い。月給が減るのは、もしかしたら、何らかの経費が差し引かれていたということもあり得るので、必ずしも不当なものとはいえないかもしれない。しかし、残業が多いというのは、週28時間以内という留学生の就業規則に違反していた可能性もある。

 もっとひどいこともあった。数ヶ月ごとに販売店を変えられ、その度に新たな研修を受けさせられ、それを口実に、時給が下げられる、というのだ。

 これではやってられない、と思うのも当然、彼は学校も仕事も辞めることにして、難民認定申請をすることにしたのだ。

 難民認定申請は、そうした問題のある学生が利用すべき制度ではない、と考える人もいるかもしれない。私もそう思う。だが、彼が日本に来たそもそもの理由がアラカン州での紛争にあるのであれば、この時点での難民申請はやむをえないことのように思える。

 もう1人の女性は、技能実習生として日本に来たというが、難民認定申請に至るまでの過程については、私はあまり聞けなかった。というのも、カウンターから、女性の入管職員が出てきて、2人に話しかけてきたからだ。彼女は2人が申請に来たということを確認すると、在留カードを提出させ、コピーをとりに姿を消した。そして、すぐに戻ってきて、紙を2枚渡した。

 おのれ、おもてなさぬの品川入管め、この紙こそは、とんでもないトラップ。私の炯眼なかりせば、2人の若きアラカン人はこの先恐るべき災難に見舞われておったことだろう。